プロフィール

suurizemi

Author:suurizemi
はじめまして。私の名前は松崎遥です。
2010年現在、東京大学大学院総合文化研究科の2年生です。
最近いろいろ総合しすぎてよく解っていません。
e-mailアドレスは、blckcloistergmilどっと混むです。出会い系サイトの攻撃によりコメント機能は使えませんので、こちらにご連絡下さい。

私の好きな言葉だけ・・・
「証明の海の中にこそ数学の生命が宿り、定理や予想は大海に浮かぶただの泡である(よみ人知らず)」
「曖昧な知識は何の役にもたちません。自戒を込めて(神保道夫)」
「連続関数以外では、微分積分法はむずかしい!(高木貞治)」
「10代で共産主義にかぶれない人間は情熱が足りない。20を過ぎて共産主義にかぶれる人間は知能が足りない。(よみ人知らず)」
「だから、あの人自身がアトラクターなんだよね(金子邦彦教授評。)」
「われわれは、ほとんど知識をもっていないことほど固く信じている。(モンテーニュ)」
「現代文明の根源であり象徴である近代科学は,知的に非凡とは言えない人間を温かく迎えいれ,その人間の仕事が成功することを可能にしている.
 その原因は,新しい科学の,また,科学に支配され代表される文明の,最大の長所であり,同時に最大の危険であるもの,つまり機械化である.物理学や生物学においてやらなくてはならないことの大部分は,誰にでも,あるいはほとんどの人にできる機械的な頭脳労働である.科学の無数の研究目的のためには,これを小さな分野に分けて,その一つに閉じこもり,他の分野のことは知らないでいてよかろう.方法の確実さと正確さのお陰で,このような知恵の一時的,実際的な解体が許される.これらの方法の一つを,一つの機械のように使って仕事をすればよいのであって,実り多い結果を得るためには.その方法の意味や原理についての厳密な観念をもつ必要など少しもない.このように,大部分の科学者は,蜜蜂が巣に閉じこもるように,焼き串をまわす犬のように,自分の実験室の小部屋に閉じこもって,科学全体の発達を推進しているのである.・・・(中略)・・・大部分の科学者は,自分の生とまともにぶつかるのがこわくて,科学に専念してきたのである.かれらは明晰な頭脳ではない.だから,周知のように,具体的な状況にたいして愚かなのである.(オルテガ)」
「幾何学(=数学)について腹蔵なく申せば、私は、これを頭脳の最高の訓練とは思いますが、同時にそれが本当に無益なものだということをよく存じていますので、、、(パスカル)」
「犬っころなら三日も四日も寝ていられようが・・・寝て暮らすにゃあ、人間てのは血が熱過ぎる・・・(村田京介)」
「小泉純一郎は朝食をたくさん食べる。ヒトラーも朝食をたくさん食べた。だから小泉はヒトラーと同じだ(朝日新聞)」
「畜生、今日もまた Perl でスクリプトを書いてしまった。ああもう、 Python がデフォルトでインストールされないシステムはゴミだよ。いや、それではゴミに対して失礼だ (リサイクル可能なものが多いからな) 。よし、こうしよう。 Python がデフォルトでインストールされないシステムは核廃棄物だ。いや、核廃棄物の中にも再利用できるものはあるな。なんて事だ、俺は本当に無価値なものを発見してしまった・・・(プログラマー)」
「ヨーロッパかアメリカの気候のよいところで、
のんびりぜいたくに遊んで一生を暮らすこともできるだろうに・・・それがお前たち下等なブルジョワの最高の幸福だ。」
「もし二人がいつも同じ意見なら、一人はいなくてもよい。(チャーチル)」
「悉く書を信ずれば、即ち書無きに如かず。(孟子)」
「一般的に、時間が経てば経つほど、バグを直すのにかかるコスト(時間とお金)は増える。
例えば、コンパイル時にタイプか文法エラーが出たら、それを直すのはごく当たり前のことだ。
バグを抱えていて、プログラムを動かそうとした最初のときに見つけたとする。君はわけなく直せるだろう。なぜなら、君の頭の中でそのコードはまだ新鮮だからだ。
2、3日前に書いたコードの中にバグを見つけたとする。それを追い詰めるのには少し時間を要するだろう。しかし、書いたコードを読み直せばすべてを思い出し、手ごろな時間で直せるだろう。
でも、2,3ヶ月前に書いたコードの中のバグについては、君はそのコードについて多くを忘れているだろう。そして、直すのはこれまでよりずっと大変だ。このケースでは、君は誰か他の人のコードを直していて、書いた本人は休暇でアルバ島(訳註:ベネズエラ北西カリブの島・リゾート地)に行っているかもしれない。この場合、バグを直すことは科学"science"のようなものだ。ゆっくり、順序立てて慎重にやらなければならないし、直す方法を見つけるのにどのくらいかかるのか、確かなところがわからない。
そして、すでに出荷されたコードのバグを見つけたら、それを直すには途方も無いコストを招くだろう。(Joel on Software)」
「男と女には春夏秋冬がある。
春にしっかり育てて、
夏に燃え上がり、
秋に”情”という実がなり
冬はそれを食べて生きていく。(柳沢きみお)」

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もはや自主セミナーの補助ページではなくなって久しいモノ。
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時代遅れ感が
ショーペンハウアーとアルレリウスについて半分ぐらい書き終わったところで自分のブログを見てみると、すさまじい広告の嵐に。
あまりにも出会い系サイトの広告が多いのでコメント禁止にしてみました。

そこで思ったのですが、ブログのコメント機能って、もしかしてすでに時代遅れなのではないでしょうか。
わたしが読んでいるブログってそういえば、もはやコメント欄がないというところも多いです。

いままでTwitterが何に使われているか見当もつかなかったのですが、エロ広告がこないので気軽に使えるという面もあるのかなと思い始めています。まぁそれだけだったらmixiでもいいわけなんですが、Blogって不特定多数に情報発信するためのものですもんね。なのでTwitterを引き合いに出してみました。
といっても門外漢の的外れな意見であることは心得ており魔す。

となると、ブログがコメントにかわるコミュニケーション手段を手に入れるまで我々はいろいろな手段を模索しなくてはならないようです。
とりあえず私はメールアドレスを公開してみることにしました。まぁ研究室のページでも公開されているわけなので
、あまり被害にならないと見込んでです。非公開コメントを残すのは、広告botには効果がないとふんでやめました。

書いているうちに、コミュニケーションなんて実際あえばいいので、コメント機能もその代替手段も必要ではないなと思えて来ました。

どちらかというとコメント機能の役割は議論の場所を提供するという点にあると思われます。それではそれを可能にするソフトがあればいいわけで、それは3年ぐらい前に村上君という高校時代の友人に話したbook jabberというソフトの話しに戻ってしまうわけで、自分は進歩していないなあと思う次第です。

進歩するために、再考して見るのも一興かも知れません。
 
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ショーペンハウアーとオルテガの怒り、アルレリウスの諦念
文章自体は継続して書いてまいりましたが、久しぶりに日記を書こうと思いました。ここ一週間に考えたことを書きますので週間日記という体裁になります。お付き合いくださりありがとうございます。

最近、ショーペンハウエルとアルレリウスに傾倒して、それぞれ何度も読み返し頭がこの二人でいっぱいになってしまいました。25年間生きてきて最も感動した本であるといってもよいかもしれません。前者は怒りをむしろ歓迎し、世人を「どこにいってもつきあたる人間のくず(岩波文庫、読書について、p132)」といってちゃかしますが、後者は怒りなどとは無縁で、「波間に浮かぶ岩頭のような」存在です。それにもかかわらず、二人には思索のプロフェッショナルとして殆ど同じ哲学を持っているのです。

何が同じなのか、どうして片方においては怒りであるものが、片方においては怒りではないのか。についてすこしまとまった文章を書き、アップロードしたいと思います。
 
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Breakfast at Tiffany's
現代の常識とも言える萌えという概念。2次元系の話は全くわからないのですが、最近これが萌えなのかも知れないと思うものがあって、それがBreakfast at Tiffany'sのHollyと主人公(Capote?)でした。

オードリーヘップバーンがあの完璧な女性をどのように演じるのかどうしても気になって堪らなくなり、映画を見ました。

Hollyは人を人とも思わず使い倒し、利用し尽くす、しかもそれを何とも思っていないという、救いようの無い嘘つき女という設定から、常識人に転げ落ち。主人公の寡黙さはHollyの饒舌さ-と誤解され、何故か兄のフレッドのために貯金をするようないい人になっており。何より主人公が人好きのしない(原作ではO.J.Bermanにパーティーで避けられる設定(主人公も俗物を嫌うのだが)だが・・・)職人気質の文学青年から、どうしようもない俗物へと変貌していました。原作では主人公は常に受動的で、そのくせ高みから客観的に状況を観察してるような鼻持ちならない人間で、逆にそこがイイのです。Hollyも主人公も、社会的なアウトサイダーでありながら、Hollyはハングリーさから強引に社会にねじり込み、主人公はそれを出来ないでくすぶっているというのがポイントなのです。自分の小説の能力で社会に認められなければならないという価値観からそれを許せない主人公は、彼女をtime wasterと呼んで決別し、決して二人が解け合う事は無いのです。Hollyが兄のフレッドの話題を出すのは心配が嵩じてではなく、あくまで、主人公の孤独さに感じた親近感と、不器用な主人公をstupid(if he is he is.)だと思っている事との二つをほのめかす象徴でなければならないのです。単に、主人公が自分と近い人間である(でもちょっと馬鹿)と言いたいだけなのです。だからmanager気取りでBermanへとお節介を焼くのです。原作を読めばおそらく誰でもわかるでしょう。

さらに、映画では存在が消されてるバーテンのJoe Bellですが、Joe BellがHollyに抱いている恋愛感情はHollyの主人公に対する近親感情と似たもので(Joe Bellも人好きのしない性格故に孤独です)、だからこそこの話の舞台は『ニューヨーク』であり『ティファニー』なのです。ですが、上のように考えれば、映画からJoe Bellが消された理由も明白でしょう。冒頭の、消息不明になったHollyがアフリカの奥地で発見される(そしてまた消える)エピソードはこのようなHollyや主人公の性格を描写するキーなのですが、それを省略してしまうとは狂気の沙汰です。

なぜせっかく映像があるのに、ティファニーのそうした面を表現出来なかったのでしょうか?原作でのHollyは、ろくにティファニーにも行ってないに違いありません。あくまで彼女の嘘、象徴としての嘘の結晶がティファニーなのです。しかしそれに気づかずにティファニーのメダリオンを彼女にプレゼントしてしまうところが原作の主人公の間抜けさであり、若さ故のfalling outの象徴になっています。だから話の中に碌にティファニーが出てこないのにタイトルになる事が出来るのです。

Amazonには
this sure tracing the words though disgracing the meaning
という中々感心させられるレビューがありましたが、17人中が3人が参考になっただけでした。

この話はこれで終わりではありません。めまいとともに、軽いデジャブもやってきました。そういえばこんな事がありました。曽田正人の『昴』が映画化されたときの事です。

人好きのしない孤高の天才である昴はダンス好きな普通の明るい女の子へと転げ落ち(?)、あたしには友達なんていない。ともだちなんて必要ない。とか、一年一緒に助け合って来た仲間に対する、彼らの事は本当は好きじゃないし、ここは自分の場所じゃない。という名言など、そういうヤバい(ヤバくイイ)台詞はすっかり無かった事になってしまいました。原作では昴は自分を運命に踊る事を強制される悲劇の主人公だと思い込む事で真価を発揮する一種の変態的な天才ですが、映画ではそういう異常性はすっかり排除されており、昴が天才ダンサーになれた理由は全くわかりません。

そして、ここでもJoe Bellに当たる役回りの黒人ダンサーが出てきます。しかし、この黒人は孤独になりきれない弱さから昴に手が届かない事を煩悶する立場なのです。Joe Bellにも何が足りなかったかのは、我々も何となくわかります。それを無理矢理言葉で表すとすれば、Fredに似ていなかったという事になるのでしょう。


 
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アメリカン・サイコを通じて世の中の風潮を考える
アメリカン・サイコを観て、その緻密な構成と練り込まれた伏線に感嘆した。この話が実在の殺人鬼をモデルにしているのか気になって、ネットで検索してしまったのが間違いだった。

そこに広がるのは、惨憺たる「夢オチ説」の嵐だった。

自分の目が信じられなかった。日本はどうなってしまったのか。
なんと言っても、作中に夢オチを思わせるような箇所が見当たらないのである。
まず、監督がインタビューで主人公のことをserial killerと呼んでおり、明確に夢オチを否定しているし、
そもそも夢オチではこの映画のタイトルの意味すら通じなくなってしまう。
というのも、本作中ではpsychoは殺人鬼をさす言葉として使われてはいない。
つまり、American Psychoというのは主人公個人をさす言葉ではなく(当たり前だが)、作品のテーマそのものとして注意深く位置づけられたものなのである。それが「アメリカ人の心に蔓延する、無関心、拝金主義、物質文明、個性的な才能の欠如から来る空虚」であり、その集合により帰結される「特権階級による犯罪が裁かれること無く隠蔽され続けていく病的な社会」であるのは、本作が社会風刺を前面に押し出していることからしてあまりに明らかではないか。
もしある人が社会の病巣を語る映画を観てその異常な事件の全貌を「特殊な一狂人」に帰着させてしまうとしたら、それはピントがずれすぎている。そのような視点は真逆であり、本作の鳴らしている警鐘も残念ながらその人には届かないだろう。
とどのつまり、夢オチと考えるようではタイトルすらも「読めて」いないのだ。

テーマを考えるまでもなく夢オチだとしたら小さな矛盾がいくつも出て来てしまうのだが、それらは本質的でない。私が言いたいのは、「どうやら夢オチだと考える人たちには作品の言いたいことは伝わっておらず、そしてそのような人たちがかなりの多数派なのではないか」ということである。つまり私はこのことを通して、2008年現代は良い作品を作っても、そのメッセージが受け手に全く届かない時代なのではないかと危惧しているのだ。

私は、昔はこうではなかった、と考える人間のうちの一人である。そしてその害悪の根源はインターネットのオルテガ・イ・ガゼットの意味での大衆化であると考える。すなわち、思考の停止、他人の意見のコピー&ペースト、"FA"という言葉を用いて行われる卑劣な同調圧力などの「インターネットの大衆化に依る強化」である。

ネットにあまたあるアメリカン・サイコの感想を「記号の扱い方についての言及」という観点で切ると、次の様に4つのレベルが存在するようである。
レベル4。作中次々と消費されていくブランドたちは、この世界自体が、自分を記号としてしか認識してくれない巨大な地獄であることを暗示している。同時に、弁護士やVice President、はてはホームレスや売春婦という記号が、どのように本作で機能しているかも興味深い。
レベル3。ブランド名や店名の羅列が人々の間で重要視され、反対に人名や人の顔自体が軽視されていることが、作品のテーマを際立たせていると感じる。また、ライナーノーツをコピーした主人公の得意げな解説が、コピペ時代の虚無を暗示している。
レベル2。無意味な記号の羅列が退屈で、あんまり面白くなかったと言う記憶だけ。
レベル1。脳内殺人を犯してしまう狂人である主人公がいかに狂人であるかと言うことが、記号への執着を描写することによって強調されている。

ちなみに「音楽」では、
レベル2。80年代の音楽のチョイスは、主人公のカラッポさ加減を表していてにやりとしてしまう。
レベル1。80年代が凝縮された3人。作者はわかってるなあと感じる。
となる。(ホイットニー・ヒューストンやフィル・コリンズを聞くこと自体が恥ずかしいとは私は思わないが、そういう意見が根強くあることを監督が踏まえている、と考えているかどうかが重要)

「メッセージの届き方」は、
レベル3。社会に蔓延する無関心や病的な物質主義がアメリカン・サイコである。
レベル2。ブラック・ユーモア映画であり、具体的なメッセージに欠ける。
レベル1。最後のオチがあーいうことだとはね。パトリック症候群、結構いるかも。(あたしは違うケド)
だ。

最後にもう少し考えたかったことは、この映画での秘書の扱い方は、ファイトクラブ(こちらも消費文明を批判した作品だ)のヒロインの扱い方と同じだと言うことについてだ。どちらも社会風刺でありながら、最後の希望が「特別な異性」として描かれていることには、必然性があるのかどうか。つまり、世の中はまだ、お互いを人間として見ることの出来る恋人同士に唯一の救いを見いだしうるのかどうか。

キューブリックの時計仕掛けのオレンジとの間に類似性を見て安心するのも、全くの思考停止であり権威主義だ。確かに、主人公の告白のシーンの最後の一言は"Open Your Eyes"であったり、斧による殺人シーンがSinging In the Rainとかぶったり、キューブリックへの憧憬が感じられるが、あくまでこの映画のテーマは原作に忠実であり、社会に蔓延する空虚感であると言うことを感じ取らなくてはならない。社会風刺なら対象が戦争でも犯罪でも同じだ、と言うわけにはいかないであろう。

しかし、悪魔の生け贄のシーンもあるし、過去の大映画へのオマージュはまだまだ隠れていそう。強烈な問題提起と、強烈な否定の意思、そして愛が感じられるいい映画なのに、それを受け取る土台はやせ細るばかりの様だ。
 
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立場の表明と侮辱の関係
1。ヘルダーリンの信じる至上の生き方と異なる生き方を至上のものとして
対置すると言う意味に於いて。対置に意味を見いだすかどうかは立場の表明に依る。
(2の後半も参照)
2。その具体的な個人の立場 から 神への侮辱 へと繋がるプロセスが
1)自分の想像力の欠如 又は 2)世の中の複雑さ に依って想定不可能である場合。
もしそのようなプロセスが、1+1=2のように明らかであるならば、
その具体的な個人の立場のあなたに対する表明はあなたの主張の否定であることが
明らかであることを意味する。否定に侮辱と言う意味を見いだすのは、恐らくウェーバーが、
真理を探究する人間であり、各人にとっての至上の生き方とは一種の真理であり、
故に唯一であると考えたから。その前提に於いては、自分の導きだした真理に対置を
もたらすものは弁証法的に融合をもたらし、この世界では自分の主張を変えうるが、
ある主張の真理を純粋に取り出したアヴァターである「神」に対しては
その存在意義を否定することを意味し、故に侮辱となる。
 
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増補して再掲します

 
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場合の数が増えすぎたので
細胞ダイナミクスについて考えながらも、どこかこれは「池上の中間層」ではないんじゃないかな、という感じがする。

例えば熱力学的なレイヤーでは、起こる現象の多様性は遺伝子ネットと比べて少なく、熱力学変数で描写される。

それに比べて、遺伝子ネットの持つこの多様さはどうか。多様さを意識したのは脂質メディエータの平林さんとの話が多大に影響している(逆に、実験としてシンプルさを抽出出来るのでは、という期待は分子モーターの岡本さんに感じた(コンプレックスの持続時間の話))。

多様さが僕を引きつけているものであり、同時に歴史的には、物理的な解析を妨げてきた障碍・・・でもある。ここでここの分子を環境から切り離して調べようと言うのが、伝統的な分子生物学の姿勢であった。が、この立場は再現性や気候の影響の問題を切り離すことが出来ない。つまり、精密化すればするほど科学のメリットの一つである普遍性が見づらくなっていきます。僕のアプローチは、系を粗視化する・・・例えば遺伝子ネットのレイヤーまで・・・あるいは進化のレイヤーまで・・・ことで、何らかの法則にたどり着きたいという、「システム理論的な」方向性で、それが様々な物理学者や今回のシンポジウムの多賀さんの言う熱力学的なアプローチだということだと思う。(ちなみに、多賀さんのGeneral Movementの実験の短期予測性が、熱力学的法則の地位を獲得しているかはまだ僕にはよくわからないです。先輩に聞いてみよう)

ここで冒頭の池上の中間層に戻ると、僕が思ったのは、進化によって多様性が減っていくような原理も考えるべきなのではないか。つまり、今まで全く解析的に考慮していなかった進化アルゴリズム自体に内在する数学的法則・・・これを探求しなければ、真の中間層に触れられないんじゃないか、という感じ。

それもあって、行列Aの進化的発展にともなうconservationもしくは、Lyapnov関数のようなものを考えていたら、一応見つかった。

しかしこれは、Nが無限の極限か、フラクタル的構造の極限(くりこみ?)でしかLyapnov関数にならないのではないかという数学的直感がある。僕の見たいのは過渡的過程で、スケールフリー性などお呼びでないということは・・・宇宙の人との会話でちょっと言ったなあ(金子さんが、僕が過渡的過程の話をしているときにはまったく繰り込みという言葉を会話に出さないので、その空気感に慣れていた)。しかし今、ランダムな進化プロセス=トラジェクトリが多すぎる、とある秩序を持った進化プロセスに近づく進化プロセス=ベキ乗則のような法則によってimplicitに可能性が狭まっている、との比較という命題が現れかけている。しかも、後者、のようなもの、にLyapnov関数があるんじゃないかという形で。

場合の数が増えすぎたので、メールのお返事が書けない。

一応多様性のカテゴリーとしてパーマネンスという概念があるけど、あれは過渡的ではない。だから駄目というわけじゃなくて、何らかのきっかけになればいい・・・
 
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ゲーム理論と蒟蒻問答
池上研の研究員の宇野さんに勧められて、金子守さんの本を読んだ。

師匠の金子さん曰く、「論理パズルみたいであんまダイナミックじゃないよ」との警告。念頭において読む。


本書は一見関係の無い5つの章と2つの番外編からなる戯曲である。全てが一応経済学、特に市場均衡理論へのアンチテーゼとしてのゲーム理論について語っているが、この本を流れる中心テーマは、学会批判である。

例えば、一つ例を挙げると、

「同じ数学的形式について語っているが、学者Aと学者Bではそもそも形式に対する解釈が異なる場合。つまり、AとBは全く別の社会現象から全く別の大前提を置いていたのに、同様のゲーム論的形式を導いて、それを共有してしまった場合。」

と、知を短時間で共有するには数学的形式に押し込めるしかないという事実の、二律背反が扱われる。この物語の主人公は、学者として自分を偽らないために、数学的形式以前にあるものをどう顕在化・視覚化するかと苦心して、学会からつまはじきにされ、忘れ去られた教授である。

映画ビューティフル・マインドでナッシュが冒頭にこういう。「I read it. There's no seminal point.」そのセリフを思い出す。(ちなみにこの教授はこの映画が嫌いで、私はこの映画が好きである。)


この現象を、ゲーム理論によってアナロジー的に説明することが本文で試みられている。それは、AとBによって行われるゲームで、AとBの想定している利得行列が異なるにもかかわらず、お互いに自分の利得行列がcommon knowledgeだと思っている場合である。利得行列がcommon knowledgeであるというこの条件は数学的には十分にきつい条件(戦略の可能性がcommon knowledgeであることはもちろん大前提)であり、AとBのそれぞれの心の中でナッシュ均衡が成り立つための十分条件である。

このとき、ナッシュ均衡から、common knowledgeを導くことが出来る。というのが金子理論のすごいところっぽい。

どういうことかというと、実際にナッシュ均衡が成り立つことC(Nash)は、AとBのそれぞれの心の中でナッシュ均衡が成り立つことB1かつB2の十分条件である。つまり、実際のゲームがなんであろうと、ナッシュ均衡がABの心の中のナッシュ均衡と一致すれば、AとBの勘違いを助長することになる。

これを具体的に構成して見せたのが、「Aは囚人のジレンマをプレイしていると信じている。Bは逢引のトラブルをプレイしていると信じている。しかし実際のナッシュ均衡を生んでいるゲームは無限に存在し、その一つがg8である。」という第4章の部分である。

これが、
「同じ数学的形式について語っているが、学者Aと学者Bではそもそも形式に対する解釈が異なる場合。つまり、AとBは全く別の社会現象から全く別の大前提を置いていたのに、同様のゲーム論的形式を導いて、それを共有してしまった場合。」
という学会の駄目なところに示唆を与えている、というわけである。


この話なんかは結構面白いけど、有限の空間の大きさに対する批判(第4曲第4幕、第1曲第4幕)などはまさに愚にもつかない。実際、第1曲第4幕は、同じ現象が起こるという条件を保ったまま、各エージェントの認識能力を減らしてやればよい(利得関数の項をへらす。つまり異なるゲームを与える)だけで解決できてしまい、さきほどの蒟蒻問答のアプローチ(ナッシュ均衡を保ったまま、異なるゲームg8を与える)と矛盾している。

番外編1では、数学と物理を引き合いに出す必要性が皆無である。ただ紛らわしくなっているだけで、詭弁っぽい。

第一章、特殊と一般の逆転、は学会批判というところを除くと蒟蒻問答にどう関わってくるのだろうか。著者はことさらエージェントの計算能力を問題にするが、その問題意識がよくわからない。


まあ以上のように、問題もたくさんある本だと思う。

あとひとつ決定的なことがある。蒟蒻問答の私の解釈はこの著者のものと決定的に違うのである。私はあの話を、

「成長するとは、より有益な解釈が偶然なされるような、知識基盤や思考回路を自らに養うことである。専門化することは、より多くの勘違いを生んでしまい悲劇や誤解のもとになるが、その方向を御することを常に意識せねばならない。」

というふうに教訓めいて解釈しているのである。
 
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two words I like to use:
novice/ sloppy
 
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生命とは何か
ルーマンを勉強して、はじめて金子教授の『生命とは何か』がわかった気がする。

もうこの知識については間違いない。ルーマンがいったとかどうかは別にして、それと独立な公理系を自分の中に作り上げた自信がある。理論を引用する時に、「~が言ったように~」と発言するのは虎の威を借る狐以外の何者でもない。

なぜなら、(例えば)私が(例えば)ルーマンの理論を正しく理解しているとは限らないからだ。

実際、社会システム理論の根底にある構成的カップリングについてはかなり相反する意見を私は持っている。自分が物理のバックグラウンドを持っていることを実感した瞬間だった。

ところで、物理システムだけでなく、記憶のシステムを考えることは面白い。

私が嫌いなものに、不毛なディベートというものがある。特に、感情的なディベートにこれは多いと思われる。つまり、目的論が嫌いなのである。

その一方で、ディベートの破壊力を増すには、心理学的なトリックを使わなければならないことがよくある。

もともと、ディベートという行為は、証拠について絶対の信頼性が存在しないという構造上の欠陥を持つ。それは、共有された記憶までしかたどり着けず、その記憶が正しいかどうかということまではたどり着けないからである。

その代表例は、日韓の歴史論争である。私は「国家によって国民に刷り込まれた歴史認識が異なる」ことを問題にしたいのではない。それはもちろんそうであるが、それ以上に、「家庭によって刷り込まれた道徳観が異なる」ことを問題にしたい。

詳細は省くが、例えば儒教的な背景を持つ国では「侵した罪は永久に償われない」という道徳観があり、日本のような流動的な国では「罪を憎んで人を憎まず」、「人としての弱さを認め合うことで成り立つ和」といった道徳的常識が醸成される。日韓歴史論争の場合は当然「朝日新聞的戦後民主主義の影響」も考慮に入れる。

つまり、日韓の歴史論争はこうした道徳的差異を超えられないばかりかそれを浮き彫りにしているところにも意味があるのである。

もちろん、史実がどうであったかは最優先であると皆さんはおっしゃるだろう。しかし、それは、日本人それも知識人としての道徳に基づいた発想なのである。

実際、たとえば韓国を例にとって見よう。この国では、先にあげたような罪に関する道徳と、民族至上主義とが家庭のレベルで刷り込まれているから、史実の優先順位はかなり低い。

http://www.chosunonline.com/article/20060115000017

チョスンオンラインでも読んで欲しい。

つまり、21世紀の学術論争は、相手がどこの国民であるかによってコールドリーディングのメソッドを切り替える必要を生じる。そのためには、自分の中に相手の見えないバックグラウンドを正確にミラーリングすることが求められる。

そのためには何をすればいいかを、私はここ2年ぐらいはずっと考えてきた。日韓問題に関心があった私は、まず最初に、チョソングル(いわゆる、ハングルね)を学んだ。あと、中国語(北京語ではなく広東語。これには理由があるが省略)ももそっと。こうしてミクロから攻めていくというのは、いかにも物理学者っぽいアプローチではないか。

但し、ここで勘違いして欲しくは無いのは、単に韓国人と話すためにチョソングルをやるのではないことだ。それだったらNAVERに行って英語でしゃべればよいではないか?

第二に、韓国人や中国人の書いた本、韓国や中国に住んでいた日本人の本、極東情勢について語った欧米人の本を読むこと。歴史でなく、経済と風俗について学ぶ。これによってミラーリングの基礎を作ることが出来る。これはいまだに実行中である。

第三に、働くという行為を通じて、日常を共有することである。

私の目的はわかってもらっただろうか。このように、メソッドに対して進むことで、100%目的論的な議論を避けることが出来る。本当の相互理解とはこのようなものだと私は考える。


ところで、このようなメソッドを可能にするものは記憶であり、逆に、イデオロギーによる支配を可能にするものもまた記憶である。その意味で、ニューラルネットワークとの構造的カップリングを念頭において、記憶の発展様式を探ることには意味がある。

この考え方は、心理学実験に対して、どこを突き詰めるべきかという指針を与えると思う。しかし、我々は日常的に心理学実験を行っている。つまり、他者との交わりにおける自己分析をそのように見る事が、求められている。

ここでもまた、畢竟独学に優るもの無しの正しさが証明されているというべきであろう。つまり、心的システムの研究とは、一生するべき旅である。エンターテイメントである。

それと同時に、(実験の方法は違えども)社会システムの探求も行われるべきだと考えている。

コメントを求む。あ、「意味がわかりません」みたいのはさすがに梨で。
 
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