プロフィール

suurizemi

Author:suurizemi
はじめまして。私の名前は松崎遥です。
2010年現在、東京大学大学院総合文化研究科の2年生です。
最近いろいろ総合しすぎてよく解っていません。
e-mailアドレスは、blckcloistergmilどっと混むです。出会い系サイトの攻撃によりコメント機能は使えませんので、こちらにご連絡下さい。

私の好きな言葉だけ・・・
「証明の海の中にこそ数学の生命が宿り、定理や予想は大海に浮かぶただの泡である(よみ人知らず)」
「曖昧な知識は何の役にもたちません。自戒を込めて(神保道夫)」
「連続関数以外では、微分積分法はむずかしい!(高木貞治)」
「10代で共産主義にかぶれない人間は情熱が足りない。20を過ぎて共産主義にかぶれる人間は知能が足りない。(よみ人知らず)」
「だから、あの人自身がアトラクターなんだよね(金子邦彦教授評。)」
「われわれは、ほとんど知識をもっていないことほど固く信じている。(モンテーニュ)」
「現代文明の根源であり象徴である近代科学は,知的に非凡とは言えない人間を温かく迎えいれ,その人間の仕事が成功することを可能にしている.
 その原因は,新しい科学の,また,科学に支配され代表される文明の,最大の長所であり,同時に最大の危険であるもの,つまり機械化である.物理学や生物学においてやらなくてはならないことの大部分は,誰にでも,あるいはほとんどの人にできる機械的な頭脳労働である.科学の無数の研究目的のためには,これを小さな分野に分けて,その一つに閉じこもり,他の分野のことは知らないでいてよかろう.方法の確実さと正確さのお陰で,このような知恵の一時的,実際的な解体が許される.これらの方法の一つを,一つの機械のように使って仕事をすればよいのであって,実り多い結果を得るためには.その方法の意味や原理についての厳密な観念をもつ必要など少しもない.このように,大部分の科学者は,蜜蜂が巣に閉じこもるように,焼き串をまわす犬のように,自分の実験室の小部屋に閉じこもって,科学全体の発達を推進しているのである.・・・(中略)・・・大部分の科学者は,自分の生とまともにぶつかるのがこわくて,科学に専念してきたのである.かれらは明晰な頭脳ではない.だから,周知のように,具体的な状況にたいして愚かなのである.(オルテガ)」
「幾何学(=数学)について腹蔵なく申せば、私は、これを頭脳の最高の訓練とは思いますが、同時にそれが本当に無益なものだということをよく存じていますので、、、(パスカル)」
「犬っころなら三日も四日も寝ていられようが・・・寝て暮らすにゃあ、人間てのは血が熱過ぎる・・・(村田京介)」
「小泉純一郎は朝食をたくさん食べる。ヒトラーも朝食をたくさん食べた。だから小泉はヒトラーと同じだ(朝日新聞)」
「畜生、今日もまた Perl でスクリプトを書いてしまった。ああもう、 Python がデフォルトでインストールされないシステムはゴミだよ。いや、それではゴミに対して失礼だ (リサイクル可能なものが多いからな) 。よし、こうしよう。 Python がデフォルトでインストールされないシステムは核廃棄物だ。いや、核廃棄物の中にも再利用できるものはあるな。なんて事だ、俺は本当に無価値なものを発見してしまった・・・(プログラマー)」
「ヨーロッパかアメリカの気候のよいところで、
のんびりぜいたくに遊んで一生を暮らすこともできるだろうに・・・それがお前たち下等なブルジョワの最高の幸福だ。」
「もし二人がいつも同じ意見なら、一人はいなくてもよい。(チャーチル)」
「悉く書を信ずれば、即ち書無きに如かず。(孟子)」
「一般的に、時間が経てば経つほど、バグを直すのにかかるコスト(時間とお金)は増える。
例えば、コンパイル時にタイプか文法エラーが出たら、それを直すのはごく当たり前のことだ。
バグを抱えていて、プログラムを動かそうとした最初のときに見つけたとする。君はわけなく直せるだろう。なぜなら、君の頭の中でそのコードはまだ新鮮だからだ。
2、3日前に書いたコードの中にバグを見つけたとする。それを追い詰めるのには少し時間を要するだろう。しかし、書いたコードを読み直せばすべてを思い出し、手ごろな時間で直せるだろう。
でも、2,3ヶ月前に書いたコードの中のバグについては、君はそのコードについて多くを忘れているだろう。そして、直すのはこれまでよりずっと大変だ。このケースでは、君は誰か他の人のコードを直していて、書いた本人は休暇でアルバ島(訳註:ベネズエラ北西カリブの島・リゾート地)に行っているかもしれない。この場合、バグを直すことは科学"science"のようなものだ。ゆっくり、順序立てて慎重にやらなければならないし、直す方法を見つけるのにどのくらいかかるのか、確かなところがわからない。
そして、すでに出荷されたコードのバグを見つけたら、それを直すには途方も無いコストを招くだろう。(Joel on Software)」
「男と女には春夏秋冬がある。
春にしっかり育てて、
夏に燃え上がり、
秋に”情”という実がなり
冬はそれを食べて生きていく。(柳沢きみお)」

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もはや自主セミナーの補助ページではなくなって久しいモノ。
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成長とは何?
コンピューターと海外旅行というのは、ある意味対照的なものであると僕は思う。しかし、完璧に対称性が成り立っているとは言えない。今日長らく考え続けていたこの問題を記録しておかなきゃいけ無い気がして、記録してみる。

海外旅行が外へのたびでコンピューターが中へのたびだとか、知れる風なことを言うつもりは無いのでまあ聴いてください。このブログも訪問者数が増えてきたし、似たようなことを思っている人は案外いるんじゃないかと思うのである。

コンピューターというのは、今皆さんが触っているパソコンのことである。普通コンピューターとして考えられているのは有限状態の情報を、CPUが等量の情報にマルコフ的に変換していくというモデルである。(昔、中高生のころ、Z80などのマイコンをやっていたことがある。)マルコフ的とここで言うのは、ある時刻での状態が決まれば未来の状態が全て計算できるということである。で、CPUは突き詰めればチューリングマシンであるので、コンピューターというのは人間の考える「有限」の化身みたいなことになっている。

では、「有限」とは一体なんであろうか。普通の人なら有限=可算というイメージを持っている。この考え方は、「数える」という行為を記号化し、没個性化するという前提に基づいている(記号化に没個性化は含まれない)。微分を発明したライプニッツは生涯「この世になぜ実数濃度の連続性が存在するのか」を考え続けた。そのことを引くまでも無いかもしれないが人間は世界から無限の情報を取り入れ、そのことを捨象=言語化して論理的思考をしている。今、「数える」という行為に我々が施した没個性化は、こうした無限の次元を持つ情報を、時間という軸でしか区別できなくなり、しかもその時間という軸から実数濃度を捨象することを表しているわけだ。

つまり、有限=可算の発想だと、有限は無限に内包され、人間の認識能力たる没個性化によって存在しうるということになる。それを支えるのは、記憶能力である。つまり、有限というものを人間の能力として解釈したことになる。

以上の議論では存在はすなわち無限であるという前提を置いたが、これは西田的に主客未分離である状態を無限といっているわけであるのはなんとなく想像がついたのではないかと思う。世界に無限が存在することと、認識が知覚に介入するまでは価値の付加が出来ないという事実から導かれた自然なモデルである。

ところが、多くの場合コンピューターは実在的な有限であると解釈される。なぜなら、コンピューターは動作がマルコフ的で、有限状態しか持たないからだ。これはハードウェアとしてのコンピューターについても当てはまる。このため、コンピューター科学は、このようなコンピューター像を受け入れることで、極めて自然に有限の足場を持つことが出来る。それでは無限はどこにも残っていないのか。その答えは、有限の足場は得られたが、そこに無限の住人である人間がやってきて、再び無限を持ち込むということになる。

ところで、海外旅行について。いくら海外旅行をしても、当然地球の外に出ることは出来ない。その意味で、海外旅行というものは限界としての有限という言葉の意味を思い出させてくれる。しかし、海外旅行に行って私は有限の体験を得てきました、と得々と語る人はいないだろう。それはそもそも体験という言葉が、無限を体験するのだという前提で語られるからである。まとめると、コンピューター科学は有限の足場に無限の楼閣を築き、海外旅行は限界の中に無限を見出す行為であるといえる。どちらも、ポピュラーな具体例を挙げたに過ぎないのであるが。

さて、この二つのことを好む人たちは多い。それはなぜか?この二つと、人間の根本的な欲望に共通しているキーワードがある。それは、「未知」である。

コンピューター科学を有限の上の楼閣に例えたが、それを牽引するのは「未知」である。「計算できる」ことは既にわかっている。だが、それ以上のことを人は知りたいと望む。「計算できる」有限状態以上のものが、コンピューターに残されていることを理解するためには、フラクタル性を考えれば十分だ。フラクタル性とは、図形の一部を拡大すると自己相似的だという現象がいつまでも続くことだ。たとえコンピューターを有限回の計算でストップさせたとしても(しかも現実は常にそうである)、人は計算結果がフラクタルであるかどうかを「決定する」ことが出来る。否、それは見出しているといった方がいい。これが人は無限の住人であると書いた理由である。

良くも悪くも、人間はそれを見出すことに「成長」というものを感じてしまう。「進歩」と言ってもいいが、未知がまた一つ減らされたと言うことをポジティブに捉える。例え残された未知が、それとは比較にならない無限であったとしても・・・

海外旅行に価値を見出す人々の種類は少し異なる。彼らは、足場の上にダイナミクスを生み出すことよりも、ダイナミクスによって生み出された多様性を知覚することを好む。そして、それに先に述べた「成長」を見出すのも常である。なぜなら、未知が減らされたと考えるからである。

少々未知と言う言葉を濫用して、多くのものから捨象しすぎたかもしれないが、「成長」という人間の欲望を語るにはちょうどよい捨象の程度では無いだろうか。人間の欲望と言う言葉によって、全ての事象が一次元化されてしまうからである。

海外旅行の途中であった。問題は、海外旅行を求める時、人は実は何を求めているのかということである。そのヒントは、危険の中にある。ある種の人々は、コストばかりでなくリスクを負ってでも海外旅行に行くのである。なぜそのような決断をするのか。それは、未知によってリスクが覆い隠されるからである。エロスとタナトスは区別がつかない、というわけだ。自滅と欲望は同じようなものだと言ってもいい。

しかし、いざ旅行に言ってみると、そこに本来の意味での未知があることはありえない。そのことを皆、私たちは知っているのである。世界に限界があると言うことから言ってもそうだが、人の住むところにはある程度までの共通性があるし、なんと言っても人が居るのである。そこではイデア界の使者たる未知は実在の人間に姿を変える。ひとたび会話交わればそれは既に他者ではなくなる。他者とは、未知と同様のカテゴリーに存在するイデアなのだから。

もちろん、他者を求めない旅行もあるだろう。しかし、人がそのような旅行を求めるかと言うと別だ。人が旅行を求めるならば、それは未知や他者を求めているのである。ある人は、そこに「成長」を付加する。「成長」とは価値観であり、価値観を変えるなら旅行の必要は原理的には無いだろう。もしも原理的に旅行が必要だとすれば、「体験」というひとの行為を通して、無限が無限へ流れ込むと考えなければならない。世界の無限がひとの無限へと流れ込む。

コンピューター科学に「未知」を見出すためには、ひとの中の無限は必要だが体験に無限を流入させる必要は無い。有限、わかりにくければ言語と表現することも出来るが、をやり取りしたダイナミクスで、人は「成長」を獲得できる。海外旅行に「未知」を見出す人は、真摯に考えるならば、無限のやり取りのダイナミクスで自己が「成長」していると考えなければ論理的に破綻しているのである。

この二つの区別がつけずに、「成長」を云々することは意味が無い。なぜなら、有限をやり取りするダイナミクスは存在しても、無限をやり取りするダイナミクスが存在するかどうかは誰にもわからないからである。有限なものがそもそも存在するのかと言う問題には、言語の分の無限量情報はいわば無限のゲージ変換だということが出来るが、無限を差し引いてもなお残る無限、それが体験の中に存在するかどうかは想像力の領域であり、ちなみに私は、それが存在しているはずだと考えている。

(これはラップの歌詞です。)
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